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2010年8月12日木曜日

【櫻井よしこ 菅首相に申す】36回…なぜ謝罪続ける

歴史に関して日本国政府がどれほど謝罪を重ねてきたかを調べてみると、その夥(おびただ)しさに愕然(がくぜん)とする。ざっと見て、日中国交正常化当時の田中角栄以来、菅直人首相の談話まで、実に36回に上る。

歴代の首相、官房長官、昭和天皇および今上天皇の発言の一覧表を前にして、なにゆえにわが国はこれほど心からの反省を誓い続けるのかと暗澹(あんたん)たる思いである。

8月10日の菅首相談話は、仙谷由人官房長官、鳩山由紀夫前首相ら、民主党政権首脳の合作である。同談話に執念を燃やした仙谷長官の役割はとりわけ重要だ。明らかに早い段階から新たな謝罪談話発表に強い意欲を抱いていた氏は、7月7日の日本外国特派員協会での会見で韓国への戦後補償は不十分と表明した。同月16日の会見では、談話の内容は「私の頭の中に入っているし、官房で多少イメージしている」と語った。

だがそれは、菅、鳩山両氏らと共有されてはいても、その外側には杳(よう)として伝わってこなかった。官邸が民主党側に内容を伝えたのは発表前日だったといわれる。

党に諮るどころか、全文を事前に見せもせず、検討、議論の時間も場も与えずに承諾させる手法が、仙谷氏の流儀である。その手法は、「仙谷よ、お前もか」と言いたいほど、小沢一郎氏のそれにうり二つである。小沢氏の独裁的手法に反発した本人が第二の小沢になっているのである。

菅、仙谷、鳩山氏らの連携作業は謀議と呼ぶべきもので、仙谷氏らが独裁者の手法を用いて秘密を保持しつつ閣議決定した菅談話には、未来永劫(えいごう)、村山談話と同質の卑怯(ひきょう)なだまし討ちの影がついて回るだろう。

菅、仙谷両氏は、恰(あたか)も国民の意思を代表するかの如く、談話を発表したが、歴史についての知識や理解は恐ろしいほどに貧しく、国家観を欠落させた氏らにその資格はないだろう。

名著「日韓2000年の真実」を著した名越二荒之助(ふたらのすけ)氏は、アヘン戦争から日韓併合に至るまでの約70年間は日韓両国ともに最も波乱に富んだ深刻、複雑な時代であると書いた。日韓の学者の中に、日清戦争も韓国併合も日本にだけ責任を負わせる人が多いのは残念で、韓国自身の責任を取り上げないのは、韓国のためにならないと、日韓の歴史研究に心血を注いだ名越氏は指摘している。

「アメリカの鏡・日本」の著者、ヘレン・ミアーズ氏は、「一九一〇年、日本が韓国を併合したのは、新皇帝が請願したからだった」と書いた。日本が悪と見なされた敗戦直後に、日本を公平な目で観察し、静かに真実を積み重ねて著した同書に、マッカーサーは激怒した。日本での出版を禁じられた同書が日の目を見たのは占領終了後の1953(昭和28)年だった。

ミアーズ氏は日韓併合について、日本は一つひとつ手続きを外交的に正しく積み上げていた、そして宣言ではなく条約で、最終的な併合を達成した、と書き、「列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法的な手続きを踏んでいなかった」と記した。

日露戦争までは描いたが、その後の日本の戦争については拒否感を示して描かずに逝った司馬遼太郎氏でさえ、当時の国際社会を、「植民地になるか、産業を興して軍事力をもち帝国主義になるかの二者択一の時代」と位置づけ、「侵さず、侵されずの平和幻想は粘土細工の粘土のようなもの」つまり、如何(いか)ようにも作り上げ得るものだと述べている。

いずれも、歴史を現在の価値観で断ずることを戒めているのだ。だが仙谷氏の発想はおよそすべて現在の価値観に基づくのみならず、事実誤認も目につく。氏は談話発表直前の8月4日、こんな発言をした。「植民地支配の過酷さは、言葉を奪い、文化を奪い、韓国の方々に言わせれば土地を奪うという実態もあった」

この程度なのである。韓国は長年、日本人が土地を奪った、実に全国土の四割を奪ったと教科書に記述し、教えてきた。だが2006年2月、この説はソウル大教授の李榮薫(イ・ヨンフン)氏らの研究で全面否定された。李教授はじめ一群の研究者らの調査で、日本総督府が土地を奪って日本人に与えた事例は皆無だったこと、総督府は土地紛争をめぐる審査においては「公正であった」ことが発表された。

右の学術報告は、わかり易い文章にされ、史実の歪曲(わいきょく)が少なくない現行教科書に替わる「代案教科書」として発行された。同書はここ数年のベストセラーであり、韓国の教育科学技術部(文科省)が高校教科書に修正要求を出す事態も発生している。

官房長官が未(いま)だにそうした事実も知らずに発言する知識不足の内閣は、日本と日本国民にとって、不幸と災いの内閣である。韓国にとっても非建設的である。

100年の歴史をふりかえるにしても、植民地時代をはるかに超える長さになった日韓基本条約締結後の日韓の協力をこそ、より前向きに評価し、強めていくことが重要ではないか。とりわけ北朝鮮の脅威の前で、日本は韓国の未来の安定に資する政策を取らなければならない。そのために、たとえば普天間移設問題を責任を持って急ぎ解決しなければならないことくらい、認識してほしいものだ。

2010年8月12日産経新聞より引用-----

2010年6月20日日曜日

慰安婦問題の真実

既に沈静化しメディアでは報じられなくなったが,未だ従軍慰安婦問題を信じている人が多い.しかし,従軍慰安婦問題とは日本の国益を損ねる問題なのである.そこで従軍慰安婦問題の真実を載せる.

まずは「従軍慰安婦」の定義からする.これは【強制的】に慰安婦として軍に連行された女性達のことをいう.「慰安婦」とは【自らの意志】または【軍に関与しない第三者】を介して男性の性欲を処理するために軍に付き添った女性達のことである.ちなみにこの時代の日本は公娼が認められていた.いわゆる売春が公に認められていたのである.このため貧しい農家の娘などが親に売られるようなことがよくあった.もちろん南北朝鮮は日本の一地方であり,これらの地域からも(もちろん現在の日本からも)自らの意志でまたは親に騙されて売られた女性も多く存在していたのである.

韓国人の証言
慰安婦動員が強制的でないことは客観的歴史的事実です.
例えば,慰安婦を集めて商売をしていた業者がいたんですよ.
「従軍慰安婦」ではなくそれは単に「慰安婦」という話です.
慰安婦業者の半分以上が朝鮮人でした.
従って何のために強制でやる必要がありますか?金のためでしょうよ.
「慰安婦」には一部証言がありますが,証拠はありません.
韓国と日本には客観的な資料も何もないのです.

加害者の証言がない
吉田清治氏(偽名,本名・雄兎)の嘘証言があるだけ.
吉田氏は軍命令により全羅南道済州島で徴用隊10人,現地軍の兵10人とトラック2台によって女性205人を強制連行したという(『私の戦争犯罪--朝鮮人強制連行』昭和58年).
しかし,吉田氏の証言が全くの嘘であることは,現地の『済州新聞』(1989年8月14日許栄善記者)の記事や秦郁彦氏の現地調査(『正論』平成4年6月号)などで明らかだ.
吉田証言を取り上げさんざん強制連行を煽った『朝日新聞』すら「朝日新聞などいくつかのメディアに登場したが,間もなく,この証言を疑問視する声が上がった」(平成9年3月31日)と事実上の否定宣言を行っている.

目撃証言がない
被害者と称する人がいても目撃証言が韓国人の中から全く出てこないのも不思議な話だ.

戦後の日韓国交樹立に当たっての交渉過程で慰安婦問題は取り上げられていない
日韓交渉は14年間にも及び微細に両国間に存在する問題が逐一取り上げられたが,慰安婦問題について韓国側も一切言及しなかった.

何故国際問題化したのか?
平成になって『朝日新聞』が火をつけ,宮澤喜一政権が「謝罪」路線に走ったから.
平成3年8月11日,『朝日新聞』の植村隆記者が元慰安婦の証言なるものを報じた(大阪本社版).これが「慰安婦問題」のそもそもの発端だった.当時,韓国内でも一切報道はなされていなかった.
その内容は金学順氏が「女子挺身隊」として「戦場に連行された」との捏造報道だった.
女子挺身隊は日本国内の軍需工場や被服工場などに動員された人々で「戦場」に出向くはずがないし,もとより将兵の性欲処理とは全く無縁だ.さらに金氏は「連行」されたのではなく貧しい母親に売られたのだった.
つまり「慰安婦問題」は『朝日新聞』の捏造報道から始まったのである.
同年12月16日,韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が元慰安婦3人を含む35人を原告として1人2000万円,計3億円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした(高木健一主任弁護士).
これを『朝日新聞』が大々的に報じたことにより一挙に重大問題化した.
しかも問題を決定的に悪化させたのは,当時の宮澤首相の姿勢だった.
真相を明らかにし,どこまでも事実に基づいて韓国と対応することをしないで韓国側に責められるままに非を認め謝罪することで事態を沈静化しようとした.
それが宮澤内閣総辞職前日に発表された河野官房長官談話(平成5年8月4日)だった.
これによって日本政府自身が「官憲等」による慰安婦の「強制」連行への「直接」の「加担」を認めたことになり,国際社会における我が国の名誉は著しく傷つけられた.
また,植村隆という記者は高知県生まれ.早稲田大学政治経済学部卒業後,1982年朝日新聞入社.千葉支局,韓国特派員を経て,現在朝日新聞中国特派員.韓国語の学習のため朝日新聞社員になってから延世大学に留学もしている.妻は,日本政府に対してアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件を起こした韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の常任理事,粱順任の娘.
ようするに植村隆は義父のための元慰安婦の証言なるものをでっち上げたのである.

日本は元慰安婦に対して賠償責任はない
軍,官憲等による強制連行の事実が確認できない上に,昭和40年の日韓国交樹立の際に締結された「請求権・経済協力協定」によって「完全かつ最終的に解決された」ことが両国間で確認されている.
日本は同協定によって無償3億ドル,有償2億ドル計5億ドルを韓国に供与する巨額の経済協力を行った(当時の韓国の外貨準備高は1億3000万ドル).

インドネシアでの慰安婦問題の対応
高木健一は1993年にインドネシアを訪れ,地元紙に「補償のために日本からやってきた.元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出した.スエノ社会大臣は事件を焚きつけた日本人達(共産党・朝日新聞・日弁連ら)に対して「インドネシア政府は,この問題で補償を要求したことはない」「しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというので戴くが,元慰安婦個人には渡さず,女性の福祉や保健事業のために使う」「日本との補償問題は,1958年の協定により,完結している」との声明を発表している.また,ジャマル・アリ会長の評価は「ばかばかしい.針小棒大である.一人の兵隊に一人の慰安婦(インドネシアに居た日本兵は約2万人だった)がいたというのか.どうしてインドネシアのよいところを映さない.こんな番組,両国の友好に何の役にも立たない.我々には,日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある.『お金をくれ』などとは,360年間,わが国を支配したオランダにだって要求しない(インドネシア・タイムス)」との声明を発表している.

結論
慰安婦問題は法的にも史実的にも実在しない.河野談話による政治的幻影のみが存在し,日本の国益を損ない続けているのだ.

下記に日本の国益を損なわせた詐話師吉田清治の経歴等を載せておく.

吉田清治(よしだせいじ,1913年10月15日-)は,日本の陸軍軍人の経歴を持つ文筆家.強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長.福岡県(山口県とも)出身.清治は筆名で,本名は吉田雄兎.

1947年,下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補.129票を獲得したが落選しているという経歴を持つ.
1977年,『朝鮮人慰安婦と日本人』を新人物往来社から出版.その中で,第二次世界大戦中に日本軍人が朝鮮の女性を強制連行し慰安婦にしたなどと証言.1982年には第一次樺太朝鮮人裁判で朝鮮人の奴隷狩りを証言.1983年,いわゆる従軍慰安婦問題の発端となった『私の戦争犯罪』を上梓した.その後も朝日新聞・しんぶん赤旗などで自身の「戦争犯罪」の告白を展開.韓国にも赴き,講演と謝罪を繰り返した.このような告白,謝罪を行ったのは吉田のみであった為,当時,吉田は「勇気ある唯一人の告白者」とされていた.
1989年8月14日,韓国済州島の地元紙『済州新聞』が取材結果をもとに「『私の戦争犯罪』は捏造」と報じた.1992年3月には現代史家・秦郁彦(元日本大学法学部教授)が,吉田の「慰安婦狩りを行った」という証言について済州島で現地調査を行ったが明確な裏付けは取れなかった.当時を知る島民は「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが,そんな話は聞いたことすらない」との証言をした.同書は韓国語訳され現地の『済州新聞』で住民の証言をもとに論評がなされているが,「あり得ないこと」「(このような作り話の本は)道徳性の欠如した本で,軽薄な金儲け主義的」と一蹴されている.秦は,同記事の執筆者,許栄善と面談の折,「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞かれ答えに困窮したという.秦は調査結果を公表し,『昭和史の謎を追う』(文藝春秋1993年3月)に掲載し,菊池寛賞を受賞した.
また,上杉聰は吉見義明・中央大学教授とともに吉田と面談した結果,「秦の論拠だけで吉田の証言を嘘と断定することはできないが,歴史証言としては採用できない」としている.
1996年5月29日付の週刊新潮インタビューで,吉田は「本に真実を書いても何の利益もない.事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは,新聞だってやるじゃないか」と『私の戦争犯罪--朝鮮人強制連行』中の記述において,「人間狩りを行なった場所がどこであるかについては創作を交えた」と偽証を認めたが,「人間狩りをした」という主張は変わっていない.しかし,現実の問題として吉田がその著書中から事実と主張する部分と創作の部分とを分離せず,検証が不可能であるために,2010年現在では吉田証言が強制連行の存否において信頼できる証拠として採用されることは,ほぼなくなった.
1998年,吉田は秦との電話会見に応じ「人権屋に利用された私が悪かった」と反省の弁をほのめかしていた.秦はその後の調査結果をまとめ,公刊した.